第7話 「浮気はやめた」


 “夭折 (ようせつ) ” という言葉があります。若くして死ぬこと。 ま、そんな意味であるわけなんですが、 「溶接屋の爺さんが夭折した。」 などと、日常生活でもよく用いられますよね。 もっとも、爺さんならちっとも若死にとちゃうやん!…という気がしないでもないんですが、まったく同じような意味で、“夭逝 (ようせい) ” という言葉があったりもしますよね。 「妖精のような少女が夭逝した。」とか。 これなら日本語としても正しいし、人の涙だって誘うことが出来ますよね。 先生、俺、これからは “夭折” ではなくて、 “夭逝” のほうを使うよ!…と、子供の頃、不治の病に冒された少女の物語を読んで、いたく感動した僕は心に誓ったものでありますが、そんな僕はある日、ツベルクリン検査で陽性反応が出て、ちょっぴりブルーになったものであります。ま、それは結局のところ何かの間違いだったみたいで、僕は結核で夭逝することもなく、こうして元気に今まで生きながらえているわけなんですけどね。

 とまあそんなことで、今日のジャズ猫まんが。 前フリとして、夭逝したジャズマンについて書いて欲しい。…という要請があったわけではないんですが、とりあえずその問題について触れてみたいと思います。 後はこれで “大リーグボール養成ギブス” さえ出てこれば、 “ようせい” に関してはほぼ完遂のような気がするんですが、とてもそんな流れにはなりそうもないので “ようせいコンプリート” は諦めることにして、若死にしたジャズマンというのは、それほど珍しい存在ではありません。 恐らく、若禿げのジャズマンよりも多いのではないか?…という気がするんですが、パパ・ジョーのほうのジョー・ジョーンズと、ウェザーレポートのジョー・ザビヌルくらいしか、ぱっと頭には浮かんできませんもんね、若禿げ。 “ジョーは禿げるの法則” とでも言えるかも知れませんが、ま、具体例は2つしかないんですけど。

 それに比べて、若死にのほうはなかなか人材豊富でありまして、特に天才トランペッターにその傾向が強いというのはよく知れらております。 まず最初はファッツ・ナヴァロ。 ファッツという愛称からしてやや肥満したキャラだったことが窺われますが、麻薬やら結核やらの影響で、死ぬ1年ほど前にはゲッソリとやせ細っていたと言われています。結核だからおそらくツベルクリン反応も陽性だったんでしょうが、結局は26歳という若さで夭逝してしまいました。 26歳ですかー。 女の人の場合だと、ギャルと呼んでいいのか何とも微妙なお年頃だったりするんですが、若死にという観点からは文句の付けようがないくらいに若いと言っていいですよね。いやあ、惜しい人を亡くしました。。。 で、そのナヴァロの後継者と目されていた天才トランペッターがクリフォード・ブラウンなんですが、この人はソニー・ロリンズやバド・パウエルの弟のリッチー・パウエルらと一緒に、マックス・ローチのグループで大いに頑張っていたんですよね。 ところがある日、リッチー・パウエルの奥さんのリッチー・パウ子 (仮名)が運転する車で演奏先へと移動している途中、ペンシルベニア州のターンパイクというところで土手だか何だかに激突して、リッチー君やパウ子ちゃんともども、あっさりとこの世を去ることになってしまいます。享年25歳。いや、これまた若いですな。もしかしたら、なりゆきわかこ先生よりも若い子だったりするかも知れませんが、かけがえのない2人のメンバーの急死により、ローチはしばらく活動を休止することを余儀なくされます。彼らが九死に一生を得て、臼歯が5本くらい折れるくらいの怪我で済んで、野球の世界にでも転進していれば、きっと球史に名を残すような名選手になっていたと思うんですけどね。 いや、 “きゅうしコンプリート” を目指すあまり、やや話の流れに無理が生じてしまいましたが、それにしても惜しい人を亡くしましたなぁ。。。

 で、しばらくヤル気を無くしていたローチ君でありますが、やがて才能溢れる一人の若くてヤングなトランペッターと出会って、再びジャズを演奏しようという意欲が湧き上がってくることになります。 その人の名はブッカー・リトル。 やがて彼はエリック・ドルフィーと出会い、ジャズの歴史にその名を刻む存在へと成長していくんですが、ああ、なんという運命の悪戯でありましょう。 リトルはやがて尿毒症に罹ってしまい、わずか23歳という若さでこの世を去ってしまったのでありました。いや決して、聖水プレイのやり過ぎとか、そういうことが原因ではないと思うんですけどね。そもそも聖水というのは飲尿健康法というのがあるくらいだから、とても健康的なものであるに違いなくて、特にタンパクがおりた尿というのは、ちょっぴりプロテイン気分?…なのではなかろうかと。

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 とまあそんなことで、本題に入ります。リー・モーガン。 彼こそが今日の主人公なんですが、この人のキャラを一言で表現するとすれば、 “早熟の天才” というのが一番ぴったり来るように思われます。 二言で表現するなら、早熟です。天才です。…ということになるんですが、1938年にペンシルバニア州フィラデルフィアで生まれた彼は、1956年にはディジー・ガレスピー楽団の一員としてプロデビューを果たしております。 1938年と1956年を足し算してみると、3894ということになりますか。 でもまあ、生まれた年とデビューの年を足してみたところで何がどうなるわけでもないので、今度は引き算をしてみると今度は18歳ということになって、これはもう、高校3年生でありますなぁ。 世の中の高校生たちが、あ〜あ〜あああ〜、高校三年生〜♪ と、舟木一夫を歌って喜んでいた頃に、彼は既にいっぱしのトランペッターとして活躍していたわけでありまして、更にこの年には自分の名前を冠した初リーダー作まで出していると言うのだから、大したものでありますなぁ。 自分の名前を冠したレコードなんて、冠二郎でもなければ、なかなか作れるものではないですからね。

 リー・モーガンはやがて、そのブリリアントな音色とクリスタルなサウンドから “クリフォード・ブラウンの再来” と呼ばれるようになるんですが、そのスタイルは 1957年に録音された 『リー・モーガン Vol.3』 で、ひとつの完成を見たと言ってもいいでしょう。 奇しくも彼はこのアルバムで、ベニー・ゴルソンがブラウニーに捧げた名曲 「クリフォードの思い出」 を取り上げているんですが、その成熟したバラード・プレイはとても19歳とは思えない人生の深い哀しみに満ち溢れておりまして、いや、これは深いですな。もしかしたら、深川丼よりも深い味わいであるかも知れませんが、それにしても何ですな。深川丼というのは、今ひとつソソられるものがないドンブリでありますな。そもそも日本の丼物というのは、カツ丼なら “カツ” 、うな丼なら “うな” 、天丼なら “天” と、その名前だけでご飯の上にのっているものの正体がだいたい把握出来るようになっているんですが、深川丼だけは例外です。深川丼というのはアサリやハマグリを煮込んだ味噌汁をかけた丼のことなんですが、アサリ丼でもハマグリ丼でもなくて、深川丼。 どうやら、 江戸時代の末期に江戸深川の漁師が食べ始めたのが由来らしいんですが、こういう、名前を見ただけではその正体がよく分からない食べ物と言うのはよくないと思うんですよね。

 こういう性格のひねくれたヤツというのはどこの国にでもいるもので、例えば中華人民共和国において、マーボー飯なら “マーボー” 、中華飯なら “中華” と、ご飯の上にかかっているものはその名前でおおよその見当が付くんですが、天津飯だけはいけません。ぼくはてっきり、ご飯の上に天津甘栗がのっているものだとばかり思っていたんですが、注文したらぜんぜん違うものが出てきて、愕然としてしまいました。 おとなしく “蟹玉飯” という名前にしておけば、こういうトラブルは避けられたわけですが、深川丼にはこの “天津飯の教訓” が、まったく活かされていないと言わざるをえません。 そもそも、カツ丼、うな丼、天丼と “丼” の前につくのは2音の言葉に限るという前例からしても、深川丼というのはやや鈍長に過ぎると思うんですよね。せめて “深ドン” という名前にしておけば、ちょっぴり深キョンみたいでいいかな?…という気はするんですけど。

 とまあそんなことで、月日は流れて 1972年。この時点でリー・モーガンは34歳になっておりましたので、上記の3人に比べればまだ長生きしたと言えるかも知れませんが、悲劇は突如として訪れました。彼は早熟だったと同時に、タマゴは半熟が、そしてオンナは熟女が好きだったと言われておりますが、問題はタマゴではなくて、オンナのほうであります。 当時、彼はヘレンという名前の女と付き合っておりました。彼女がいったいどういうギャルであったのか、詳しいことは伝わっておりませんが、名前からして恐らく西川ヘレンのようなタイプではなかったのかと。 わかこ漫画には “奥さん” と書かれていて、そういう説もあるようなんですが、実際のところはモーガンの愛人だったみたいなんですけどね。  が、ただの愛人ではありません。 何と、14歳も年上っ♪…ということは、えーと、34と14を足して、48歳ということになりますかー。 僕の心の中のギャルの定義は、6歳から46歳くらいまでということになっているんですが、その人並み外れたストライクゾーンの広さを持ってしても、ちょっぴり微妙なお年頃ということになりますね。 その頃、モーガンにはフィアンセがいたという話もあって、そんな彼がヘレンちゃんに別れ話を持ち出したのは、ニューヨークにある 「スラッグス」 というジャズクラブでのことでありました。 その時、彼はライブに出演中だったんですが、ステージとステージの合間の休憩時間にヘレンちゃんがやって来て、別れ話をしているうちに逆上した彼女からズキューンと拳銃で撃たれて、万事は休す、ゼンジーは北京。 いや、人の命なんて儚いものでありますなぁ。。。

 ちなみにモーガンは1968年に吹き込んだ 『カランバ』 というアルバムで、くだんの愛人に捧げた 「へレンズ・リチュアル」 なる曲を演奏しております。その頃はすごくラブラブだったものと思われますが、当時はヘレンちゃんも若干44歳ですからね。ギャルと呼んでもまったく差し支えのないお年頃でありますが、それから4年で愛が冷めて、浮気に走ってしまったのが命取りでありました。 いずれにせよ、奥さんが自宅でリー・モーガンのレコードばかりをかけているようなら、その後でファッツ・ウォーラーの 「 AIN'T MISBEHAVIN' (浮気はやめた) 」 を流すというのが、長生きをする秘訣なのかも知れません。 ということで、今日のお話はおしまい。


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